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資本主義と分裂症〜ドゥルーズ=ガタリを読むために


 本頁では、哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析医にして活動家のフェリックス=ガタリの
『資本主義と分裂症 全二巻』(第一巻アンチ・オイディプス、第二巻ミル・プラトー)を読
み解くために、さまざまな観点を提示します。



(1) 構造主義→記号論→ポスト構造主義(D=G)
 ドゥルーズ=ガタリは、思想史の観点からすると、ポスト構造主義(後期構造主義)に位置づけられる。
 構造主義とは、全体を実体視するホーリズムでもなく、部分を実体視するアトミズムでもなく、諸関係のネ
ットワークで事象を捉える研究態度もしくは主義主張を指す。代表的な構造主義者には、文化人類学者のク
ロード・レヴィ=ストロースがいるが、彼の構造主義的手法は、未開社会(彼の好んだ熱力学の比喩でいう
と<冷たい社会>)に見られるトーテミズムや親族の基礎構造には、鋭い分析をみせたが、資本主義社会
(<熱い社会>)のダイナミズムを捉えることができなかった。
 そこで、記号論(文化記号論)が登場する。記号論は、文化の中に光/闇、ハレ/ケ、日常/非日常、中
心/周縁といった二項対立を見い出し、これらの劇的対立から歴史が展開すると考えた。トリックスターや
スケープゴートの理論は、その成果といえる。記号論は、スタティック(静的)な構造に変えて、定期的な祝
祭を通じて、再生する共同体といった社会の動的な面を抉り出した。ただし、それは野蛮な専制君主制の交
代劇といった分野には有効な手法だったが、システムの解体そのものをシステム化した資本主義の研究に
は、不十分であった。
 こうして、ポスト構造主義が登場する。ポスト構造主義は、資本主義のような怪物的なシステムに対して、
機械・装置といったコンセプトで、そのダイナミズムを一気にとらえようとする。
 例えば、ミッシェル・フーコーは『監獄の誕生』の中で、最も完成された監獄の形態である一望監視装置
(パノプティコン)について思考し、それが監視するものが見られることなく、見るための装置であると分析す
る。フーコーが、監獄について思考をめぐらすのは、社会全体をつらぬいている権力はいかに作用している
かを問うためである。権力は人間の多様性を制御し、欲望をコントロールする。欲望は、禁止されるのでは
なく、一定方向に整流化され、システムを維持し、システムを再生産するために使用される。こうして、フー
コーは権力のテクノロジーとエコノミーを暴露する。そして、管理社会としての我々の社会を、明らかにする
のである。
 ドゥルーズ=ガタリは、制限つきの脱コード化社会として、資本主義をとらえ、それがシステムを解体する
システムであることを示すと同時に、その解体=脱コードが、資本の増大という一定方向への生成にのみな
されていることを示す。ドゥルーズ=ガタリが連れ出そうとしているのは、制限なき脱コード化であり、リゾー
ム(根茎)に絡み合うネットワークの世界である。リゾーム(根茎)は、彼らの中ではトゥリー(樹木)と対にな
る概念であり、トゥリーがONとOFFの二項対立からなる選別と排除の世界であるとすると、リゾームはもは
やそのような枝分かれが無効になるようなアナーキーな世界である。こうして、ドゥルーズ=ガタリは、権力
から遠く離れて、未知のリゾーム空間へと誘うのである。

(2) エピクロス→スピノザ→マルクス→アルチュセール→D=G
 ドゥルーズ=ガタリのポシシオンは、エピクロス→スピノザ→マルクス→アルチュセールに由来する唯物論
の系譜に立つ。
 たとえば、ライプニッツのモナドロジー(単子論)は、部分の中に全体が組み込まれているという考え方で
あり、そうであるがゆえにモナドが集まって全体が形成された場合でも、予定調和が成り立つという。この考
え方の現代版はアーサー・ケストラーのホロン(全体子)という考え方である。部分の中に、全体の設計図
が入っているということで、全体の安定性が保たれるというわけである。
 還元主義批判に立つ論者は、多かれ少なかれ、このホロンの考え方に似通った考え方をしている者が多
い。ニュー・サイエンスといわれたジャンルの人たちは、ほとんどがこのような考え方を共有している。「原子
物理学を探求していったら、タオ(道教)の世界観と似通っていたので、これからはタオイストとしてフェミニ
ズムとエコロジーと協調路線をとって、地球にやさしい科学者になります」などということを言い出した途端、
この人はタオイズムに反する物理現象はなかったことにして、この世から隠蔽してしまうであろう。つまり、こ
のような考え方はアルチュセールが批判した「科学者の自然発生的哲学」であって、観念論哲学なのであ
る。科学者たるもの、最後まで唯物論者としてズタズタに全体を切り刻み、予定調和に収まりきらない差異
やズレや逸脱を、暴き出すべきなのである。
 ドゥルーズ=ガタリのノマドロジー(遊牧論)は、モナドロジーを揶揄する主張である。ノマドロジーは、予定
調和のヴィジョンを切り裂き、外部へノマド(遊牧民)として出ることをすすめる徹底的に唯物論的な砂漠へ
の誘いなのである。

(3) アルチュセール(AIE論)→フーコー(権力装置論)→D=G
 アルチュセールは『国家と国家のイデオロギー装置』の中で、国家のイデオロギー装置(AIE)という考え
を打ち出した。国家装置は、物理的・現実的な権力を行使し、われわれを管理する装置であるが、権力のエ
コノミーという観点からすると、物理的・現実的な権力以外に、イデオロギー(虚偽意識)によってまるめこん
だ方が良い。こうして、学校や宗教装置が登場し、さらには逸脱者を矯正し、その欲望を社会の維持・発展
に生かせるように転換するため、牢獄や精神病院が機能することになる。これらはAIEであり、国家装置が
人間を管理する際の物理的・現実的な権力を省力化・節約するのに役立つだろうというのである。
 アルチュセールは、主体の形成こそが、管理システムの最終型とみなす。まず最初に、大文字の主体が
小文字の主体に呼びかける。次に、小文字の主体同士が呼びかけあう。最後に、小文字の主体が自身に
呼びかける。こうして、自己を管理する自己が誕生し、国家装置が権力を行使する上で、もっとも安上がり
で、なおかつ効果のある管理システムが完成する。
 フーコーは、アルチュセールのアイデアを、具体的なレベルで暴き出す。精神病院、監獄、セクシュアリ
テ。フーコーの探求は、常に排除の構造を見据えている。フーコーは、人間主体を奇妙な経験的二重体と呼
ぶ。要するに、自己を監視する自己ということであり、この自己は権力の手先なのである。
 そして、ドゥルーズ=ガタリ。彼らは家族の三角形のなかで、主体が形成されるといい、パパとママの間
で、エディプス化=主体化が起こるという。エディプス化されたぼくは、ママを獲得するために、パパと資本
主義という土俵の上で追いつけ追い越せのデッドヒートを行うようになるだろう。資本主義に飼いならされた
おびただしい家畜たち。

(4) 実存主義とマルクス主義の批判的継承
 サルトルは、構造主義が登場した際に、ブルジョワがマルクス主義に用意した最後の砦と呼んだ。あたか
も、自身が実存主義者として登場した際に、マルクス主義陣営に叩かれたことを忘れたように。
 しかし、構造主義は、サルトルの『弁証法的理性批判』よりも、科学的な説得力で圧倒したが、サルトルか
らの「歴史の拒否」という批判は正しかった。
 構造主義の支持者は、(1)より科学的な説得力のある社会理論を求める左翼からと、(2)歴史に関わり
たくないベンチウォーマーと歴史を変えたくない右翼からであった。
 例えば、フーコーは、歴史の通時態よりも、共時態を重視し、エピステーメーといわれる認識の座標が、地
層のように積み重なり、現在のエピステーメーとその前のエピステーメーの間には明らかな断層があり、人
間主体のプラクシスによって歴史は思うように変えられない、むしろ人間主体というものは、歴史につくられ
るものであるという認識を示していた。とはいえ、フーコーは、後にサルトルとともに監獄情報グループにコミ
ットしたり、さまざまなアンガージュマンをみせるように左翼であり、人間の力で歴史を変えられないのに、
なぜ歴史を変えようとするのかという矛盾を抱えていた。
 ドゥルーズ=ガタリは、エディプス化=主体化され、資本主義を維持し、次の世代の再生産を行うように躾
けられた人間が、資本主義のシステムを見抜き、制限つき脱コード化から、制限なし脱コード化の方に変換
する可能性を開き、再び理論と実践を結びつけることに成功した。
 ちなみに、ポスト構造主義の中でも、存在論的脱構築よりも、郵便的脱構築の方が優れているという最近
の論調についてコメントしておけば、デリダは脱構築する構築をいまなお必要としており、書を捨て町に出る
ことを説くドゥルーズ=ガタリの方が、はるかに先を行っていると考える。

(5) (マルクス+フロイト)×ニーチェ
 ドゥルーズ=ガタリが扱うテリトリーは、マルクスの領域である社会的経済的諸関係のみならず、フロイトの
領域である無意識の世界をも踏み込んでいる。ドゥルーズ=ガタリは、欲望する諸機械というコンセプトで、
欲望する機械と機械が連結し、予想外のベクトルに向かうようにと挑発する。
 ドゥルーズ=ガタリは、マルクスのようにこの国家はだめだから、別の国家を用意しようとはいわないし、フ
ロイトのように、この家庭は病んでいるから、別の家庭の中に組み込もうとはいわない。むしろ、国家の外、
家庭の外へと出ることを勧める。
 ドゥルーズ=ガタリは、あらゆる文明を拒絶するニーチェ、あるいは徹底的な単独者であるカフカの友であ
り、彼らは多種多様なアナーキーの開花へと向かうのである。



『アンチ・オイディプス〜資本主義と分裂症』
第一章 欲望する諸機械
 第一節 欲望する生産
 第二節 器官なき身体
 第三節 主体と享受
 第四節 唯物論的[質量論的]精神医学
 第五節 欲望する諸機械
 第六節 全体と諸部分
第二章 精神分析と家庭主義。神聖家族
 第一節 オイディプス帝国主義
 第二節 フロイトの三つのテキスト
 第三節 生産の接続的綜合
 第四節 登録の離接的綜合
 第五節 消費の連接的綜合
 第六節 三つの綜合の要約
 第七節 抑制と抑圧
 第八節 神経症と精神病
 第九節 <過程>
第三章 野生人。野蛮人。文明人
 第一節 登記を行う社会体
 第二節 原始土地機械
 第三節 オイディプス問題
 第四節 精神分析と人類学
 第五節 土地の表象
 第六節 野蛮なる専制君主機械
 第七節 野蛮なる表象、あるいは帝国の表象
 第八節 《原国家》
 第九節 文明資本主義機械
 第十節 資本主義の表象
 第十一節 最後は、オイディプス
第四章 分裂者分析への道
 第一節 社会野
 第二節 分子的無意識
 第三章 精神分析と資本主義
 第四章 分裂者分析の積極的な第一任務
 第五節 第二の積極的任務
補遺 欲望する諸機械における作動プログラムの総括
 第一節 欲望する諸機械と他の種々のものとを比較した場合の相異
 第二節 欲望する機械とオイディプス装置。<退行-抑制>に対抗するものとしての循環
 第三節 機械と充実身体。機械の種々の備急


『千のプラトー〜資本主義と分裂症』
1 序 リゾーム
2 1914年 狼はただ一匹か数匹か?
3 BC10000年 道徳の地質学 (地球はおのれを何と心得るか)
4 1923年11月20日 言語学の公準
5 BC587年、AD70年 いくつかの記号の体制について
6 1947年11月28日 いかにして器官なき身体を獲得するか
7 零年 顔貌性
8 1874年 ヌーヴェル3編、あるいは「何が起きたのか?」
9 1933年 ミクロ政治学と切片性
10 1730年 強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること
11 1837年 リトルネロについて
12 1227年 遊牧論あるいは戦争機械
13 BC7000年 捕獲装置
14 1440年  平滑と条里
15 結論 具体的規則と抽象機械   






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